CWB:メカニクスビルの戦いを考える

メカニクスビルの戦い」は、七日間の戦いの最初の大戦闘になる。
水路の名前で呼ぶ北軍側では、ビーバーダムクリークの戦いとも呼ばれる。
1862年に行われたマクレランの半島戦役は、セブンパインズを最高点として後退を始めていた。
セブンパインズで負傷したジョー・ジョンストンに代わって北バージニア軍の指揮官となったボビー・リーは、積極的な作戦を次々に展開して見せた。その最初のものが、このメカニクスビルの戦いだったと言えよう。
北軍リッチモンドの東方に南北に長く伸びて戦線を構えており、北側ではチカホミニー川を利用し、さらに最北部では支流ビーバーダムクリークを利用して布陣していた。このチカホミニー川北部のビーバーダムクリーク背後に布陣していたのが、フィッツ・ジョン・ポーターの第五軍団である。
ボビー・リーは、北軍側の配置を検討した結果、この第五軍団がチカホミニー川により北軍の他の部分から切り放された状態にあると判断した。そして、この第五軍団に対して、出来る限りの兵力を集中して攻撃することを計画した。
この計画自体は紙上では非常にもっともらしかった。
まず、ジャクソンのバレーアーミーが、水路を越さないで済む北側から第一撃を見舞うように計画された。これが実現すれば、第五軍団はその時点で後退、もしくは水路を守る兵力が不十分になるであろう。その段階で、次にAPヒルの部隊により水路を押し渡り、さらにDHヒル、ロングストリートの部隊が増援することになっていた。
しかし、南北戦争全般を通しては非常に優秀とされた南軍の北バージニア軍の指揮系統は、この七日間の戦いでは戦果を挙げなかった。リーの機動は往々にして複雑に過ぎ、紙上プランのようには機能しなかった。その最大の原因は、ストーンウォールジャクソンの相次ぐ遅滞だった。
このメカニクスビルは、その最初のもので、バレーキャンペーンから転戦してきたジャクソンは、その疲労のためか所定の時刻に攻撃を開始することができなかった。6月26日の朝に予定されていたジャクソンの北側面攻撃は実施されずに終った。午後3時になってAPヒルは辛抱ができなくなり、自らの判断で水路を越えての困難な攻撃を開始した。
結果としてAPヒルの孤立した困難な攻撃は1500名程度の損害を出して失敗に終った。この損害はそれほど大きくは見えないが、当日の北軍の損害の4倍ほどにもなっている。したがって、七日間の第一ラウンド、メカニクスビルは、北軍の戦術的な勝利に終った。
しかしながら、北軍の総指揮官であったマクレランは、南軍がこのように積極的な攻撃を実施してきたのは圧倒的に勝る兵力を持っているからではないかと考えた。彼は同様の結論を促す証拠を他にも持っていると信じており、ポトマック軍は以後、戦略的には後退を続けることになる。
したがって、メカニクスビルは戦術的な結果とは別に、南軍にとっては大きな戦略的目標、「リッチモンドの危機を回避する」を達成する第一歩とはなったと言える。
ポーターの第五軍団は、ビーバーダムクリークの陣地を捨て、ゲインズミル方面まで後退したのである。