先般のプロジェクトXを見て、図書館から借りてきました。

ペシャワール会の会報に中村先生が寄稿したものをまとめた分厚い記録本です。小説でもドキュメンタリーでもないので、リーダビリティは非常に悪く、とてもまともには読み切れないので全5部の内、1,3,5部だけ読むことに。
第1部は、中村医師がパキスタン北西辺境州に入って、主としてライ病に取り組む話しです。
ライ病というと、グインサーガ冒頭の辺境編に出ていたヴァーノン伯爵を思い出しますね。現在は作者の改稿により姿を消してしまいましたが。
p21
北西辺境州からアフガ二スタンにかけて約1200万人居住すると言われるパシュトゥーンは、古代からこの一帯に居住する精悍な山岳民族で、謎の多い不思議な人々である。足を組んで坐っているバザールのチャイカナの主人が世界情勢に精通したインテリであったり、高笑いで冗談を飛ばしている粗野な男が命をかけてアフガンゲリラに献身する立派な外科医であったりする。
p22
日本のクリスチャンたちの誤解を招くことを敢えて承知で述べれば、イスラム勢力の弱体化のためにキリスト教宣教が行われたのであり、それは少なくともこの地では決して良きものをもたらさなかったといえる。それは、十字軍遠征の続きであったといっても過言ではなかろう。北西辺境州は文字通りそのフロンティアとなったのである。
p31
パシュトゥーンというのは、アフガニスタンからパキスタンの北西辺境州一体に住む部族の総称で、現在推定約1200万人が両国にまたがって居住しています。アフガニスタン、北西辺境州に住む大多数の人々は、このパシュトゥーンで、現存する世界最大の部族社会といわれています。
p36
(らい病の)治療は、1947年にサルファ剤の一種DDSが導入され、その後次々と有効な薬剤が開発された。これにより、症状の進行を止め感染性を失くすことが可能となった。
p37
ライという病気の中で、最も厄介なものの一つに足底穿孔症というのがある。これは、ライ菌が主に末梢神経を侵すために手や足の温痛覚が失われることによるもので、わが病棟の患者の入院理由の半分以上を占める。
p38
念願の靴のワークショップが、四月にオープンしました!これで、「うらきず」に悩ませられる患者がどんなに減るかと思えば愉快の一語に尽きます。
p70
ペシャワールに居て危険なのは何も機関銃や爆弾だけではない。先日、警官の誘導に従って車で三叉路を出たところが、猛スピードで直進してきたミニバスに激突した。急ハンドルを切って大難をさけたが、助手席側は破壊された。乗っていたアフガン人のドクターを見ると、幸いかすり傷程度でドアから飛び降りて相手の運転手を怒りに歩いていた。
免許証の呈示を求められた時から勝負は決まっていた。私が「友邦日本」のお医者様であり、国際免許証に立派なネクタイ姿の社員があること、相手のが許可証しかない難民であることである。
実はパキスタンは国際免許の条約加盟国ではなく、相手の許可証の方が法的には有効なのだが、そんなことはどうでもよいのである。
p82
我々は決してレディ・リーディング病院と競争していたわけではないが、みかけはやや汚くても質の良い治療と和やかな雰囲気を求めて患者はペシャワール・ミッション病院に集まってきた。
p86
その上、この退院患者のうち二名が死亡、一人は消化性潰瘍による吐血、一人は虫垂炎として手術をうけ術後死亡していた。手術を受けた患者は、向栄病院で若い医者のトレーニングに使われたという噂が広まり、私が九月にペシャワールに帰った時は、殺気だった空気が流れていた。
p92
アフガニスタンにおいては、99.9%がイスラム教徒、それも最も戦闘的なイスラム社会である。カブールのような大都会に住む者は別として、殆どのアフガン人はイスラム教徒以外のものをカーフィル(異教徒)と呼び異物扱いする。
p107
この一年間の目立った動きは、和平交渉が活発化してソ連軍撤退の現実的見通しが出てきたこと、アフガニスタン内部の軍民とペシャワールの事務局との間に亀裂が深まったことである。「ソ連軍の撤退」は、平和を意味しない。
共通の敵を失うことの方が、かえって様々の組織や部族間の対立を煽る結果、混乱はいっそう激しくなるというのが現地の見方である。
p115
確かにフィールドワークはいかにも辺地で活躍しているような印象を与えて見栄えがするけれども、多大の予算と時間が要るし、病棟の仕事がおろそかになる。フィールドでうろうろするよりも、診断能力のある医療関係者や患者を多数作り上げる方が遥かに良い。
第1部は一進一退であり、その主要な意義は、アフガニスタンというのがどういう土地であるかを理解させることにあります。
これを踏まえて第2部では、さらなる一進一退がおよそ十年に亘って繰り広げられるのですが、そこは割愛しました。
第3部へ移ります。第3部では、これまで借地に建っていた病院の立ち退きを要求され、新たな土地を取得して新病院を建設する話しが主眼目です。
また、ドイツのライ病支援団体が、手柄を急いでライ病の対策率を高めに報告したことから国際資金が断たれて苦しみます。
p290
さて、今年も終わりが近づき、私たちの活動は間もなく十二年目を迎えようとしています。しかし、情勢の急激な変化に伴って、現地活動は今、重大な転換期にさしかかっていることをお伝えせねばなりません。
p295
マラリアは世界で最も犠牲者の多い疾患のひとつで、年間100万人以上が死亡していると言われる。太平洋戦争中、南方方面での日本軍人の「戦病死」の多くがこれによるもので、時には戦死者を上回ったことはよく知られている。
p301
旧難民の約四分の一、60~80万人が残っていると言われるが、かなりは地元(パキスタン側)に定着しており、残るキャンプは自立してコロニー化している。現在「難民」と呼び得るのは主にカブールからの都市避難民である。パキスタン政府はこの受け入れに消極的で、大部分はアフガニスタン側のジャララバード周辺でテント生活を強いられている。ペシャワールまで来られる者は中産階級が多い。
p307
マストゥジ地域(ヤルクン河流域)への医療活動の方も、着々と準備されています。同地は、ヒンズークシュ山脈の最高峰ディリチミールの北部山岳地帯で、北辺チトラールの中でも僻地中の僻地と言われる処です。当然、医療関係者は誰も行きたがらず、ライの調査は皆無です。
p313
このワハン回廊の国境、ボローゴル峠に滞在中、ある家で十カ月の乳児が死亡した。乞われるまま私が診たときは既に虫の息で、肺炎か結核の末期と思われた。助手が「なぜ早く下手の診療所に連れてこなかった」と言いかけて口をつぐんだ。冬の険路を四日がかりで連れていくうちに凍死してしまう。また、彼らに薬品を買う収入がないことを忘れていた。
私は簡明に述べた。
「正直に言おう。力は尽す。だが、奇跡をあまり期待しないが良い。今夜か明日の朝までが峠だ」
父親が言った。
「すべてはアッラーの御心です。神の御業に私たちは逆らえません」
私は呼吸が楽になる抱き方を教え、甘いシロップを一匙あたえた。すると、赤子が一瞬、ほほ笑んだ。それだけでみな明るくなった。しかし、それだけだった。
後で聞いたところによると、父親は
「あのドクターはすばらしい。言ったとおりになった」といったのだそうだ。私は自分が日本で考えられるような医者としてではなく、神の定めた寿命を伝えるものとして尊敬されていることを理解した。
p319
ライ根絶計画は一大転機を迎えた。それまで州のライ・コントロール計画が依存してきたドイツ側の財政支援が困難になった。その理由は、誇大な「コントロール達成宣言」である。これは既に登録されていた患者に多剤併用療法を実施し、感染例が激減したのが根拠であった。
しかし、登録者自体が氷山の一角であり、患者の実数は最低二万人と見積もられている。登録患者数は年間二百名の勢いで増え続けており、後遺症は一生に近いケアを要する。道は遠い。
p328
1987年になって「ペシャワール会」を中心とする日本の支持者たちの助けでJAMS(日本アフガン医療サービス)が発足する前後の難民の実状は、描くのに躊躇する。遠隔地の国境地帯は特に厳しかった。爆撃で追われた人々の群れが長い逃避行の後、大量に死亡することは普通に見られた。わずかの医薬品を提げて「救急援助」にかけつけた時、数百家族が既に凍死していたことも一再ではない。まだ生命のある者を選び出して処置したが、救命できた例はなかった。
p331
患者の出身地「インダス・コヒースタン」は、ギルギット地方とスワト地方とを隔てる一大山岳地帯で、多数のハンセン病患者がいます。しかも、過去誰も手を付けていないので、私たちの主要標的のひとつですほとんどがコヒスターニーという独自の言語を喋り、事実上伝統的な自治体制で閉鎖された世界です。
p336
イスラム復古主義の新勢力、タリバン(神学生)が、わずか二年で全土の三分の二を支配下に収め、9月には首都カブールを占領して旧勢力を一掃した。旧政権さえ躊躇していたナジブラ元大統領の処刑を断行、三日間市中に吊るして厳しいイスラム法による統治方針を徹底、全世界を震撼させた。イランでさえ、「行き過ぎ」を非難したが、治安の回復は、戦乱に付かれた一般大衆に安堵をもたらし、タリバンは概ね各地で歓迎された。
p347
私たちの出発点であった「ライ病コントロール計画」への協力は、やっと形を成して、落ち着くところへ落ち着きつつあると言えるでしょう。しかし実は、取り組みはこれからなのです。建物は建っても中身が問題なのです。建物はいわばサザエの殻のようなもので、それが無いと生きられませんが、実際に生きて活動するのは中身です。それが「新態勢」で、まだまだ努力が求められるようです。
p351
2月22日、外壁と内壁ができあがり、内装の段階になりました。幾多の闘争がウソのように思われます。
まだ少し不足ですが、日本からの建築募金は三年前見立てた目標が5000万円を達成。最初の頃、見切り発車で不安でしたが、天はまだ見放さないようです。
と言うことで新病院建設が段落した所で第5部へ。
p396
飲料水を確保し「終末」に対峙せよ
それは現在のアフガニスタンの象徴であった。罅割れた段々の土地が、昨年まで緑豊かな水田だったとは誰も思わないだろう。頭上をロケット弾がかすめる。遠くで機関銃の音がこだまする。
「水の谷」ダラエ・ヌールの面影はなかった。
七月初旬に開始された我々の計画は、「大成功」と報じられた通りだったが、これは皮肉な光景を生み出していた。七月三日、井戸掘りが始められ、十三か所で飲料水が確保された。さらに不十分と見て、主としてアムラ村で十九か所のカレーズ修復を始め、十六か所で水を出した。
ここで少し「カレーズ」について説明しなければならない。これは西アジアから中央アジアにかけて広く利用されている伝統的な灌漑方法で、数千年の歴史を持つ。簡単にいうと、山麓の地下水を水平に導き出す用水路である。イランに見られるものは数十kmに及ぶが、ダラエ・ヌールのは500mから2000m、8~9m毎に縦井戸を掘り、これを横のトンネルでつなぐのである。
p400
蓮岡氏は、排水ポンプの遅れに焦っていた。「短期大量」が方針だったから、無理もない。
「私の力不足で、行き届かなくてすみません」
「やるじゃないか。たいしたものだ。ここまで組織するとは上の上だよ」
「始めたものの、先が見えないような気がして‥」
「構わずに、どんどん増やすんだ。涸れればまた掘ればよい」
私が冬を乗り切るための暫定案を示して長期戦を説くと少し落ち着きを取り戻したようであった。
通常、政府間援助はもちろんNGOでも調査・準備に半年はかかるのだという。三週間でほぼ120か所に着手したPMSの動きは、奇跡的というのに近かった。しかし、この背後に会員たちの強力な財政的支持があったことは言うまでもない。
p403
ビザで足止めを食っていた中屋氏がやっとジャララバードに送り込まれた。だが、この時までに様々な教訓が得られた。「教訓」と言えば聞こえが良いが、重大な失敗があった。井戸の枠を外すのに時間をかけ過ぎた上、壁が崩落、結局、新たに掘らざるをえない。やっと到着したポンプは大部分の現場で役に立たない。そもそもダラエ・ヌールの報告が課題で方針が誤っていたのだ。
その後の調査でダラエ・ヌールの成功は主としてカレーズ再生によるもので井戸の掘削は効果を挙げていないことがわかった。
p404
9月十八日、蓮岡氏より電話が来た。それまで頼りにしてきたデンマークの土木プロジェクトDACAARが突然、貸し出したものを全て返せとねじ込んできたと言う。
諸外国NGOの中では珍しくまともで、井戸の構造ひとつを見ても手抜きがなかった。
「ペシャワールのDACAAR本部と掛け合ってください!」
「DACAARが協力しない訳がない。下っ端の意地悪だ。明日、所長と確認するから心配するな」
翌朝、直ちに面会に赴いた。
「それはなにかの誤解か、間違いでしょう。早速ジャララバードに確認します」
「失礼ですがどちらからおいでですか?」
「デンマークという小さな国からです」
「アンデルセンの国ですな」
「日本人のあなたがご存じで?」
「日本人なら誰でも知ってます。大抵の子供たちが聞かされて育ちます」
「知りませんでした」
「現地に問い合わせ、誤解に基づくことが判りました。協力を惜しみません」
p415
2001年10月、タリバンを「テロリスト勢力」と決めつける米国などの音頭で国連制裁が実施された。
しかし、元来アフガニスタンは農業立国であり、タリバンの宗教政策は農村部の伝統的慣習を敷衍したものであったから農民は違和感がなかった。かれらが驚くべき少数の軍隊で国土を収め得たのは、このためである。
p416
ダラエ・ヌール診療所付近の干ばつで廃村が続出し始め、水源確保の緊急事業に乗り出した。問題は医療以前であって、「病気どころではない。まず生きておれ!」という状態だったのである。
この結果、作業地507か所、うち利用できる水源が422、二十数万名の流民化を防ぐというペシャワール会、過去最大規模の事業となった。
p424
現カブール政権のもたらした秩序と市民生活の安定は、多くの人々にとって、たとえ極貧に在っても代えがたいものであった。そして、それは今でもそうである。アフガニスタンの実像は正しく伝えられていない。人びとは北部の軍事勢力と米国が共同して昔の混乱と破壊を再現することを恐れている。