なつかしの昭和プロレス:ストロング小林

bqsfgame2011-12-25

1940年生まれの3人の最後の1人がストロング小林である。
意外にスペースがなくなってきたのですが、40年は終らせてしまいましょう。
筆者のイメージは圧倒的に猪木に挑戦してきた国際のエースです。
もともとはボディビルダーと言うので、彼の怪力殺法は自然な流れだったのでしょう。国際プロレスはボディビル界との繋がりが太かったと言われ、アニマル浜口もこのルートです。
小林は国鉄職員で趣味でボディビルをやっていて吉原社長にスカウトされてプロレス入り。最初は日本人初の覆面レスラーとも言われる覆面太郎としてデビュー。これは今にして思えば国際プロレスの失敗の一つのように思います。
豊登と組んでIWA世界タッグの初代チャンピオンになってトップクラス入り。IWAワールドシリーズを制して国際のエースの座に付きました。馬場のところでも書きましたが、IWA王座の連続防衛21回は永らく日本人王者の連続防衛記録でした。押しも押されもしない国際プロレスの大エースだった訳です。
1974年にアントニオ猪木への挑戦を訴えて国際プロレスを離脱しました。これは全日本プロレスに遅れを取っていた新日本プロレスの引き抜きだとする説が以前からありますが、小林本人は草津を押すフロントとの対立が原因と語っています。いずれにせよ大エース小林を失ったことは国際プロレスにとっては最大のダメージとなり、中長期的に衰退の道を下っていきます。
猪木との大一番では小林が怪力殺法で押し気味に試合を進めました。そして、カナディアンバックブリーカーで担ぎ上げた時には勝負あったかと思いました。しかし、ロープ際の魔術師と呼ばれるようになる猪木はトップロープを蹴ってバックブリーカーから脱出、そのままリバーススープレックスで小林の巨体をマットに叩きつけます。このムーブは、押されていた猪木が逆転する導火線として説得力のあるムーブだったと記憶しています。最後は猪木が芸術的なジャーマンスープレックスで小林の巨体を完全に投げきっての勝利。本来は猪木の時に書くべきことかも知れませんが、猪木のベストバウトの一つだと思います。
一方の小林も猪木と互角に戦える日本人大型ファイターであることを証明した上で新日本マットに合流することとなり、この大一番は成功だったかに見えました。
その後は坂口との北米タッグ王者として新日本のナンバー3として活躍。北米タッグ王者としては3年間に渡って活躍しました。
しかし、持病の腰痛の悪化から徐々にトーンダウンしていき、北米タッグをヒロマツダマサ斉藤に奪われたところで長州にメンバーチェンジすることとなりメインイベントから外れていきました。
長州とタイガーマスクに端を発するプロレスブームの時にはセミリタイア状態だったので、わたしより下の世代のプロレスファンには小林の凄さを知らない人も多いかと思います。
引退直後はストロング金剛の芸名で風雲たけし城に出ていたりしましたが、芸能活動でもフェードアウト。
最後にリングで見かけたのは、はぐれ新国際軍団から浜口が離脱した時のラッシャー木村との決着戦で木村側のセコンドに付いていた時でしょうか。
杉山もそうですがアーリーリタイアしてプロレスブームの80年代には活躍できなかったので、全盛時を知っている人と、それ以降のファンとで評価格差の大きいレスラーの一人でしょうか。
いや、猪木との対決の時には本当に凄く盛り上がったのですよ。時代も価値観も違うから比較するのに無理がありますが、個人的には後のIWGPなどより小林の挑戦の方がずっと猪木の危機感も大きく、猪木のキャリアにとっての価値も大きかったように思います。
小林が国際に残っていたらと言うのは良く国際ファンの間で言われることですが、国際の存亡だけでなく、小林本人にとってもどうだったのだろうかと思います。
画像は猪木戦での小林の力任せのコブラツイスト。全然エレガントじゃないけど、本気で力任せに絞っているのが良く分かります。