なつかしの昭和プロレス:アントニオ猪木

bqsfgame2012-02-26

1943年までやってきた。
そして、問題の人、アントニオ猪木である。
坂口、草津で書いた通り、レスラーの評価は、人物としての評価やビジネスマンとしての評価とは別物である。その如実な実例が猪木であろう。
猪木のリング上でのカリスマは、今更筆者が書くまでもない。
ストロング小林の項でも書いたが、小林との日本人エース決戦は当時は大変な盛り上がりであり、その試合内容でも小林の怪力殺法を受け切ってからのロープ際の魔術からの大逆転と魅せる試合ぶりだった。
その後の異種格闘技路線、IWGP、新国際軍団との1対3ハンディキャップマッチなど、いつの時代も猪木は魅せる試合をリングで披露してきた。
とは言いながら、そもそも日本プロレス除名騒動の時に、どうして山本ただ一人しか反対がいなかったのかと考えれば、猪木がレスラーたちの間で人望が高くなかったのは想像に難くない。
さらに、プロレスブームの最中、ジャパンプロレスの、長州、谷津、浜口、寺西、小林、斉藤、カーン、永原、栗栖、新倉、保永、仲野らの離脱がなぜ起こったのかと考えると、猪木が人物として評価しかねると言う結論に至らざるを得ない。
猪木がリング以外でサイドビジネスを手掛けていたことは有名だが、その最大のものであったアントンハイセルは国際プロジェクトとして規模も大きく数十億円の赤字を作ったと言われる。放映権を担保にテレビ朝日に穴埋めしてもらっても足りず、新日本プロレスの売上金に手を付けたと言われ、これがジャパンプロレスの大量離脱の背景になったとされる。
ビジネスマンとしての評価以前に、ほとんど犯罪とも言える所業であり、猪木が身内に支持されなくなったのもむべなるかなと思わされる話しである。
残念ながらプロレス界には、こうしたカッコ良く言えば無頼漢、悪く言えば無節操な人物が多く、師匠の力道山東京プロレスに猪木を導いた豊登もそうであった。その意味では、10代でそうした人間たちのところに入門して、その後、その閉鎖社会で育った人間としては止むを得ない側面があるかも知れない。しかし、馬場が社会人として一定の見識を持った言動を示していたのと比較すると、やはりレベルが低いと言わざるを得ないのではないだろうか。
馬場との関係は、馬場の項で書いた通り、猪木から見ればライバルだが、馬場から見れば格下の後輩だったようだ。馬場が猪木を敬遠していた一因に、こうした社会人としての未成熟さもあったのかも知れない。馬場が新日本と言う団体自体を嫌っていた訳ではないことは、長州らのジャパン勢を受け入れたこと、坂口社長時代に手を差し伸べたことから見て確かだろう。さすれば、馬場の感情は飽くまで猪木個人に向いていたように思われる。
山本が生前に言っていたように、いずれにしろ両雄が並び立てるような社会ではプロレスはなかったのかも知れないが、二人の間の感情の縺れが日本プロレス界を歪めた部分は小さくなかったように思われる。
最後に当たり前のことを書くが、いかに猪木がカリスマであろうとも、新日本プロレスは猪木の私物ではなく、そのことが理解できなかったところに猪木の様々な限界があったように思う。