カートホイール作戦

bqsfgame2015-03-20

延々と懸案として残っているATO2008の「カートホイール作戦」。
拡張キット「将棋」を入手したことでもあり、この機会に是非とも稼働したいと思っている。
筆者は、太平洋戦争と言えば、チリ対ペルー、ボリビア連合の硝石戦争のことと言うマイナーテーマ志向で、日米戦争には疎い‥(^_^;
と言うことで、まず史実から俄か勉強。
カートホイール作戦の範囲と言うのが、実はそれほど明確ではないらしい。ATOのゲーム範囲はソロモン諸島からニューギニアまでの作戦活動になっている。資料として入手した「図説太平洋海戦史3」では、ギルバート・マーシャル諸島方面の作戦まで含めてカートホイール作戦と整理してある。
いずれにしても、ガダルカナル島後の南太平洋を中心とした米軍の本格攻勢と言うことは間違いない。南太平洋方面の責任者だったマッカーサーは、ラバウル直接攻撃を主張して増援を要求したが、最終的には直接攻撃よりも孤立化を目指して周辺から真綿で首を絞めるように進攻することになり、中央太平洋も同時期にガルヴァニック作戦で攻勢に出ることになったそうだ。
作戦行動が先に始まったのはソロモン方面で、43年7月5日に米軍がニュージョージア島に上陸した辺りが本格的なスタートらしい。米軍の目標は同島のムンダ飛行場奪取だったが、日本軍も抵抗しムンダ飛行場へ米軍が突入したのは1カ月後の8月3日だったそうである。
ニュージョージア島の一つ北西にはコロンバンガラ島があるが、米軍はこの島の防御が硬いと判断、ムンダ飛行場を正面攻撃して苦戦した反省から、これを迂回して一つ先のベララベラ島に8月15日に上陸する。こうした防御の硬い拠点は迂回して孤立化させて無力化すると言うのが、カートホイール作戦の一連の戦いで目立つ米軍の思想(飛び石戦術)である。
これに対して日本軍はコロンバンガラ島放棄を決め、9月に撤退作戦であるセ号作戦を実施する。コロンバンガラからの撤退が完了した時点で日本軍はベララベラ島を保持する意義もなくなったと判断、ベララベラ島からも10月に撤退する。
戦場はいよいよ(墓島こと)ブーゲンビル島へと移るが、ここでも米軍は正面攻撃を避け防御の薄い西岸のタロキナへと上陸する。これが11月1日の出来事。これに対して日本軍は、航空戦ろ号作戦、タロキナ逆上陸作戦などを試みるが物量で圧倒的な米軍に実質的な効果はなかった。一方、タロキナ上陸を成功させた米軍は、そこからジャングルを横断して攻勢に出るような意図はなく、タロキナに飛行場を建設して航空攻撃拠点を前進させ、そこから規模は小さいが頻度の高い空襲を実行して日本軍にストレスを掛け続ける作戦(ラバウル点滴爆撃)を展開した。
ソロモン諸島側の攻勢が教訓を得ながら順調に推移する中、中部太平洋のガルヴァニック作戦も始動した。11月21日に、マキン島、タラワ島へ上陸。特にタラワ島の上陸作戦は大激戦となり、ASLのヒストリカルモジュールにもなっている。
日本軍は、ブーゲンビル島でもガダルカナル島で実行した東京急行スタイルの高速駆逐艦による補給活動を実行しようとしたが、セントジョージ岬沖海戦で敗北し駆逐艦輸送による補給にも齟齬を来す。ブーゲンビル島は補給孤立したが、ガダルカナル島と異なって現地の食生活を参考にしたサツマイモ栽培による自給や、ヤシの実の利用などで餓島ほどの破局は免れたと言う。
年が明けて44年1月末から2月に掛けて、中部太平洋ではクェゼリン環礁を初めとした一連の上陸作戦が、南部太平洋ではブーゲンビルとラバウルの中間にあるグリーン諸島の上陸作戦が実施された。これによりカートホイール作戦の一連のアクションは、ほぼ終息した。
この時期に米軍はソロモン諸島の北、マーシャル諸島の西にある日本軍拠点、トラック島を空襲して無力化している。
蛇足であるが、自活して抵抗を続けたブーゲンビル島の日本軍は、フィリピン方面に転戦した米軍に変わってタロキナへ来たオーストラリア軍の正面攻勢に良く抵抗し、終戦まで同島を維持した。これを以てしても米軍の「正面攻撃を避けて、迂回・孤立化を図る作戦」が正しかったことが窺われる。
なお上述のトラック島も空襲で無力化した後は上陸せずに迂回している。
このように、「カートホイール作戦」と「将棋」は同時期に進行した、いずれも米軍の飛び石戦術が効果を発揮した作戦であり、その意味で同じシステムで扱うことには妥当性がありそうである。